15. こうした想像が

■例文
 ちーちゃんは、きっと今ごろ、彼氏と観覧車に乗っているのだ、と思いました。こうした想像が、ぼくを動揺させました
 ちーちゃんは、きっと今ごろ、彼氏と観覧車に乗っているのだ、と思いました。そう思ったので、ぼくは動揺しました

■違い
 会話のときに使うのであれば、「そう思ったので、ぼくは動揺しました」という下の例文を使うほうが、普通だと思う。そしてこれは、主観的な感じがする。
 一方、「こうした想像が、ぼくを動揺させました」という上の例文は、客観的な感じがする。なぜなら「想像が、動揺させる、ぼくを。」という感じで、頭のほうに「想像」という塊が飛び出してきて、それが「ぼく」の上に乗っかって動揺させる感じ、すなわち、主体であるはずの自分を動揺させられる客体として扱って、想像のほうを主体として扱っているから、客観的な感じがするのだと思う。客観的に自分の立場や心理状態を説明するような構えを示すことに何か意味はあるのか?ある。それはたぶん、速度感に関わってくる。ふつう、人が何かを説明するときには、下の例文のように、「自分を主体」として説明する方式を採用しているのだと思う。しかし、そういう方式で文を作り上げているときに、ほんのちょっぴり上の例文のような「自分を客体」として説明する方式を発露させることで、文章全体の見通しがよくなる感じがする。つまり、一度加速した文の流れを停止させることができるような点で、意味がある。ただし、この方式を会話において多用すると、くどいような感じがする。そして、傲慢な感じもする。傲慢になるといっても、知性的に成熟した智者が言うのであれば別である。そしてまた、人生の甘いも苦いも経験したような老人が言うのも許される。なぜといって、経験に基づいた言葉には、時間によって洗われた純粋な言葉、すなわち真理に近い言葉、が表れてくるように思うから。アリストテレスは「弁論術」という本で次のようなことを言っている。「格言を用いることは、年格好がかなりの年配に達している人にふさわしく、自分にその経験があることについて用いるのが適切である」と。
 関係ないけど、ぼくは、なにかを説明するときは「〜のように思いました。そして、〜のように思いました。そんな感じだったんで、ぼくは突進したんです」という感じだと思う。これを上の例文にならって書き換えてみれば「〜のように思いました。そして、〜のように思いました。そういうふうな想像が、ぼくを突進させたんです」ということになる。