95. 音楽にまで高めた

■例文 トーマス・マン 「ヴェニスに死す」
 それは彼の耳には、ぼんやりとした諧音であった。そこで耳なれぬということが、少年の語る言葉を音楽にまで高めた
 それは彼の耳には、ぼんやりとした諧音であった。そこで耳なれぬということが、少年の語る言葉を心地よいものにした

■違い
 今日の例文は、「遠くから少年が会話をしている声が聞こえたが、何を言っているかよく聞こえなかった場面」で、発せられた言葉である。
 「心地よい」といったって、心地よさには色々あるわけで、たとえば、海の渚で波の音を聞いているときのように継続的な刺激に心地よさを感じるのか、好きな人が風鈴の鳴るような声で笑ったときのように一瞬の輝きに心地よさを感じるのか、など色々ある。
 そこで、具体的なものに連想させることが望まれるのだけれども、ここでは、「音楽」というものに連想させている。
 「音楽」というものは、音と音とを見事に調和させることを目的にしている。したがって、以下の二つの言葉は同じである。「少年たちの会話が、音楽にまで高められている」=「ある少年の声と別の少年の声とが、見事に調和されている」。作者は、少年たちの会話が、耳触りのない調和された音であったのを「音楽」と例えたのである。では、「音楽」と例えることで、どのような効果がでるのか。
 「音楽」とは「芸術」である。「芸術」というものは、美の完成が目的にされている。そして、完成したものを愛求することを、人間はやめられない。したがって、「音楽にまで高める」という美が完成したものを示唆する言葉には、人は魅かれるところがある。その構造は、「音楽⊂芸術=美が完成したもの←ここを予感して魅かれる」である。つまり、どのような効果がでるかといえば、完成されたものを示唆する言葉が、散りばめられている文章をみることで、読み手が、きもちいい!って思う効果。
 この論理は、どのように使えるか。たとえば、「彼のナルシズムが、彼の語る言葉をポエムにまで高めた」、「彼の豊かな表情や、ツバをじゅるっとすする汚い音が、彼の振舞いを喜劇にまで高めた」という感じ。