123. こういう顔にぶつかる

■例文 三島由紀夫 「金閣寺
 私はこういう顔にぶつかる。大切な秘密の告白の場合も、美の上ずった感動を訴える場合も、自分の内臓を取とりだしてみせるような場合も、私がぶつかるのはこういう顔だ
 私はこういう表情をされる。大切な秘密の告白の場合も、美の上ずった感動を訴える場合も、自分の内臓を取とりだしてみせるような場合も、私がぶつかるのはこういう顔だ

■違い
 「こういう顔にぶつかる」のほうが、ドスンと衝撃がある。
 勇気を出して自分の本当の思いを言ったのに、相手になんら響いていないときの空しさ。この空しさの本体を吟味してみれば、「言ってあげた」という気持ちが先行していることがわかる。これを、「言わせていただいた、聞いていただいた、ありがてえ」と思えるようになれば、結果にこだわらずに、表現すること自体に喜びを感じれるようになるので、空しさはこない。来るとしても、「あ〜響かんかったか〜」という適度な空しさがくるだけ。窓際に行ってひんやり冷たくなるような。たまにこういうのに浸るのもいい。
 感情をずらすと、気持ちが楽になる。例えば、「なんでこんな変なこと言うんじゃろ。ばーか」という怒りの感情をずらして、「この人はこんなこと考えとるんかー!」と驚くように心がける。その自己訓練が自分を偉大なる高みに連れていく。
 関係ないことだけど、三島由紀夫の「金閣寺」の主人公には、何か人間性が欠けていて、理解できないところがある。ぼくは落ち込んだときに、この小説をよく思い出す。主人公は、人に理解されないという一点をもって、自分に誇りをもっている。内面には複雑な観念の体系をもっていて、その深みのせいで人に理解されることがない。そのことを思うと、気持ちがスッと楽になって、独立の気概がワンワンとくる。「おかえりワンちゃん!」と言って抱きあげたら爆発した。結局はむなしい自尊心にすぎなかったという物語