92. 愉快であった

■例文 夏目漱石 
 その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑やかな景色の中につつまれて、砂の上に寝そべって見たり、膝頭を波に打たして其所いらを跳ね廻るのは愉快であった
 その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑やかな景色の中につつまれて、砂の上に寝そべって見たり、膝頭を波に打たして其所いらを跳ね廻るのは楽しかった

■違い
 「愉快であった」のほうが、余裕がある。そして、「愉快だった」でなくて、「愉快であった」となっているところに味がある。
 感想を述べるときのヒントがここにある。すなわち、「〜するのは愉快であった」と自分の行動を簡単に説明するだけでなくて、「〜という状況の中で、〜するのは愉快であった」と、まず周りの状況を仔細に再現してから、自分の行動を紹介するほうが、何か訴えるものが出てくるということだ。
 一方、何か感想を求められたときに、「ぼくはその時、こういうふうに考えて、このところに意味をもって、行動したんだ」というように自分の行動に意味づけを加えて感想を述べる術は、なかなか即座に実現できるものでない。だから、意味づけを加えるというのではなくて、状況を仔細に説明するというやり方でもって、相手の想像表象に働きかけて、無難にやり過ごすのが得策である。
 ちなみに、この他にもぼくが気になる言い回しがある。「知った人」、「賑やかな景色」、「景色の中につつまれて」、「見たり〜〜〜跳ね廻るのは」、「其所いら」、「であった」、という言葉。
 夏目漱石の「こころ」は、一段落ごとに気づきが含まれていて、すごい。ぼくはこれからも、何度も何度も読むだろう